第29話:小アルカナを学ぼう その4 3のカード
- 各カードの3のカードの意味を理解しよう
29 3のカードを学ぼう

3はなんていうか、各スートごとに明暗くっきりしてるねえ









いつも思うんだけど、セフィラってそれぞれのキャラが若干かぶってない…?3のビナーの理解と、2のコクマーの叡智って何がちがうの?






大元の発信源があってそこから発せられる原理があるけど、それを受け取る人がいなかったら原理はちゅうぶらりんで現前できないってかんじ?

図形も3点あれば三角形として定まった形がとれる。
3っていうのはこの世に現前するための完全な数っていう認識っぽいんだよね。
なので、この3のカードにはそれぞれのスートの真髄があらわれるんだ。

なんか、エースのカードと3のカードをセットでみるとそれぞれのスートの個性がつかみやすそうだね

29-1 3のカードの概要
小アルカナの3のカードは第三セフィラのビナーに対応します。
ビナーは「理解」をあらわします。ここでいう理解とはどういうことでしょうか?
レヴィは以下のように説明しています。
完璧な言は、三つ組で成り立っている。聡明な原理、語りかける原理、そして語られる原理、この三つがそろってはじめて完璧な言葉となるからだ。(中略)
神は、この世を創造するにあたって、己自身に対して己自身のことを語りかけたわけである。
これが三つ組のいわれ「三位一体」協議の期限である。
人文書院 エリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」教理篇より
ケテルによって創造され、コクマーによって認識された言は、「三つ組」で完成するとはどういうことでしょうか。また、聡明な原理、語りかける原理、語られる原理とはどういうことでしょうか?
ヴァルター・ベンヤミンは旧約聖書での神の創造について以下のように述べています。
自然の創造(『創世記』第1章に拠る)が行われるリズムが存在していて、それは、<在れー神は造られたー神は名付けられた>のリズムである。(中略)創造行為のはじめとおわりにある、この「在れ」と「神は名付けられた」のなかに、そのたびごとに、言語に対する創造行為の深い明確な関係が現れ出る。創造行為は言語の全能の創造力を開始し、最後に言語は創造されたものをいわば自身に同化する、つまりそれを名付ける。したがって、言語は創造するものであり、かつ完成するものである。言語は、言葉にして名なのである。名は言葉であるがゆえに、神のうちにおいて名は創造する力をもち、神の言葉は名であるがゆえに、この言は認識する力をもっている。「神はそれを見て、良しとされた。」と、それはつまり、神がそれを名を通して認識した、ということである。
ちくま学芸文庫 ヴァルター・ベンヤミン「ベンヤミンコレクション1 近代の意味」言語一般および人間の言語について より
ベンヤミンは神の創造について
という3つのステップを想定しています。そして「言語は創造するものであり、かつ完成するものである。言語は言葉にして名なのである」と述べています。つまり、言語による創造は名付けられることによって完成することを示唆しています。また、ベンヤミンは次のようにも述べています。
人間は神が創造者として発した言語を、まさにその言語こそを認識する者なのである。神はみずからのかたちに、人間を創造した。つまり、神は創造する者のかたちに、認識するものを創造した。それゆえ、人間の精神的本質は言語である。という命題は説明を必要とすることになる。人間の精神的本質とは、創造の媒質となった言葉なのだ。
ちくま学芸文庫 ヴァルター・ベンヤミン「ベンヤミンコレクション1 近代の意味」言語一般および人間の言語について より
聖書の中で、人間は「神の姿似」として神に創造され、そして神の息吹を吹き込まれた存在です。そして人間は神の創造したものに「名付け」をする存在として造られています。ここでもやはり神の創造は、
という3段階を経て完成すると考えられています。
つまり、レヴィのいっている
「完璧な言は、三つ組で成り立っている。聡明な原理、語りかける原理、そして語られる原理、この三つがそろってはじめて完璧な言葉となるからだ」というのは
というものがそろって根源である言は完璧となるといいかえているのではないでしょうか。
そのため、各スートの3のカードはそのスートが深く理解されたときにおこることが表現されています。
個人的にはエースのカードと3のカードをセットで理解することで各スートの性質がより理解しやすくなるのではないかとおもいます。
29-2 ワンドの3


アニメのOPとかでこのアングルから主人公によってって、アオリで顔うつしていく演出とかありそうだよね

でも、ホップのいうとおり、このカードはワンドの本質であるエネルギーの拡大、成長を体現してるとおもうよ。ウェイトは著書の中で「絵の中の船は彼の所有物で、積荷を満載して海を越えていく」って表現してる。




「収穫」をもとめるペンタクルとちがって、ワンドがもとめるのはエネルギーの拡大だ。だからワンドにとって得た富の幸せな使い方っていうのは次のビジネスや拡大に投資して、より勢力を広げていくことなんだよ。


だからこのカードは確立された力とそこからさらに進んでこうとする意欲をあらわしているんだよ
基本的な解釈
各スートの3は各スートが深く理解されたときに起こることが示唆されています。
エネルギーの拡大を求め続けるワンドにとってそれは、「得たものをさらに拡大していく無限の拡大」を示唆します。
ワンドの2のところで「調和」はワンドにとっては窮屈さをもたらすことをお話ししましたが、2で存在していた囲いは消え、3では広がる海を一人の男が見下ろしています。
海には船が見えますが、アーサーウェイトはその船について
絵の中の船は彼の所有物で、積荷を満載して海を越えていく。
魔女の家BOOKS アーサー・ウェイト「タロット公式ガイドブック」より
と説明しています。彼はすでに成功しているにもかかわらず、そこからさらに拡大を目指しているのです。
何かを得ようとする動きについてワンドとペンタクルは少し似ているかもしれませんが、ペンタクルが「所有すること」「財産とすること」に興味を持つのに対して、ワンドにとっての所有物は「もっと勢力を拡大するための材料」でしかないのです。
そのため、ここで描かれている人物も決して服装は裕福そうではないにもかかわらず、「積み荷が満載の船を海にこえさせる」力をもっています。
これは綺麗な身なりで塀の中から世界を覗いていたワンドの2とは対照的です。ワンドの本質は力の拡大であり、得たものをさらに投資につかって拡大をしていくことがワンドに特有な動きであることを示唆しています。
正位置
ワンドの3ではここまでに得た者をさらに次の冒険へとつかっていく、向上心を示唆しています。
このカードがでてきたときあなたは、次のステージへと進んでいくことが求められています。現状もっているものに満足するのではなく現状もっているものから、さらに拡大していくことが求められています。人間関係に関することの場合には、関係を発展させていくために、あなたが行動することが求められています。いずれにせよ、わくわくする冒険や成長が示唆されているカードです。
逆位置
逆位置の場合にはワンドの3がもつ挑戦、探求、冒険といったキーワードが過剰や不足にはたらいていると考えます。
過剰にはたらいているときには挑戦や探求が思っている以上に困難なもので、逆境に立たされる可能性があることが示唆されています。
不足の場合には、前に進むことに臆病になってしまっていること、あるいは意欲やモチベーションをうしなってしまっていることを示唆しています。
救いとしてこのカードがもたらされる場合には、「冒険の終わり」つまり、波乱万丈な展開から解放されることを示唆している場合もあります。
29-3 カップの3


楽しそうだけどこの人たち何してんのかな?



各スートの3はそのスートが深く理解されたときに何がおこるかを示してるんだけど、さっきのワンドの3と比べると、カップの喜びの性質がわかりやすいんだよ


たぶんこれって、収穫祭か何かしてるんだよね。で、その収穫の何を喜んでるかって話なんだよ。
さっきのワンドは得た収穫をどうつかおうとしてた?



カップの本質は愛情だから、カップにとって幸せって「みんなとわかちあうもの」なんだね。

だってさ、盃をかわすときっていうのはお互いの労をねぎらいながら、これからもやっていきたいときだとおもうんだ。

基本的な解釈
庭園のようなところで3人の女性がお互いの腕をからめながら杯を掲げています。
アーサーウェイトはこの絵に対して
庭園に3人の乙女がいて、カップを差し上げ、お互いに誓いをのべているような風情である。
魔女の家BOOKS アーサー・ウェイト「タロット公式テキストブック」より
と説明しています。
では一体、彼女らは何を誓っているのでしょうか?
各スートの3はそれぞれのスートが深く理解されたときにもたらすものがえがかれています。カップの3には女性たちのまわりに収穫物が描かれています。これはひょっとしたら収穫祭の様子なのかもしれません。ワンドの3では、得た成果物(積み荷)は、ビジネスの拡大のためにつかわれていましたが、彼女らはその収穫物を傍らにお互いに喜びあっています。
ワンドにとっては全ての成果は「拡大」のためにありましたが、カップにとって全ての成果は「愛」のためにあるのです。
このカードは人生の喜びは他者の分かち合いにあることを表現しています。これまでの成果が実る風景であるとともに、喜びを周りと共有すること。周囲に愛と感謝をもって接していくことで喜びがさらに大きくなっていくことが示唆されています。
正位置
正位置ではこのカードのもつ「喜び」や「分かち合い」が中庸に働いていると解釈します。
ウェイトはこのカードの正位置に対して「あらゆる問題に対する結論が、豊かで、安全で、喜びに満ちた形で出る。」と説明しています。
このカードはこれまでの成果が実ること、そしてそれを周囲に愛と感謝の形でわかちあうことでその幸せがより大きくなることを示唆しています。
逆位置
逆位置ではこのカードのもつ「喜び」や「分かち合い」が中庸をはなれて過剰や不足にはたらいていると解釈します。
過剰の場合には享楽に溺れてしまっていることを示唆します。
ウェイトはこのカードの逆位置に対して「過度な肉体的快楽。感覚的快楽。」と説明をつけています。喜びとは幸せな感情ですが、その喜びに溺れてなすべきことを放棄してしまったり、喜びのためにすべてを費やしてしまうのであればあまりいい結果にはむすびつかないでしょう。
不足の場合には、喜びや幸せの喪失、関係や友情の破綻を示唆します。
救いが齎される位置にこのカードが出てくる場合には、享楽的で生産性のない関係の終了をあらわすこともあります。
29-4 ソードの3



アーサー・ウェイトもこのカードの正位置の解説に、「この絵から自然に連想できるもの」って書いてる。
シンプルに悲しみだったり、悲痛だったりをあらわしてるよ

ソードの1はあんなにかっこよかったのに、なんで3はこんな悲しそうなの?





。誰かから何化を奪うことを選んだんだから自分も奪われることになるんだから。






戦いの剣は必ず敗者を生み出すし、誰も傷つかず涙をながさない勝利なんてないんだよ。だからソードを深く理解すると心の痛みがあらわれるんだ。
基本的な解釈
3本の剣が心臓を貫いていて、背景には雲がたちこめ、雨がふっています。アーサー・ウェイトはこのカードの正位置の解釈の一つとして「この絵から自然と連想できるもの」と書いています。
また、黄金の夜明け団はこのカードに「悲しみ」とタイトルをつけています。各スートを深く理解した時におこることが描かれているのが各スートの3ですが、なぜソードではこのような悲しみが表現されているのでしょうか?
叡智で勝ち取る勝利を寓意するソードは、必ず敗者を生み出します。痛みのない勝利などなく、仮に自分が勝ったとしても、それが永遠につづくわけではありません。「戦い」を選んでしまった時点で無限の戦いの連鎖、悲しみを生み出す連鎖にまきこまれてしまうのです。そのため、ソードの3は他のどのカードよりもシンプルに悲しみ、悲痛さを表しています。
正位置
正位置の場合は、ソードの3が寓意する悲しみや心の痛みをそのまま解釈します。
このカードが出てきた時に私たちができることはその悲しみを受け取り、自分の気持ちを感じきって昇華することだけです。ソードのカードは悲痛でありながらとても美しく、静かなカードです。繰り返しになりますが、各スートの3はそのスートについて深く理解したときにおこることをあらわしています。このカードは、戦いの表面の華やかさではなく、戦いにはそもそも悲しみがつきまとうこと、戦いの結果がどのようなものであれ、必ずどこかに悲しみが生まれてしまうことを認め、ただ感じているカードなのです。このカードそのものは悲しみや心の痛みをあらわしますが、その痛みを自分の中で受け止めて、感じきることを求められているカードでもあります。このカードは、他人に痛みを撒き散らすのではなく、自分のハートで自分の痛みを受け止めることも示唆されているカードでもあるのです。
逆位置
逆位置では、ソードの3が寓意する悲しみや心の痛みが過剰や不足にはたらいていると解釈します。
過剰の場合には、些細なことを大きくとらえすぎていて、被害者意識にとらわれていることが示唆されます。
不足の場合には悲しみを受け止めることができず、いまだ自分の痛みと向き合えていいないことが示唆されています。ウェイトはこのカードの逆位置に対して「疎外感。失敗。損失。乱心。混乱」という共通点がつかみにくい注釈をつけています。これは、悲しみや痛みに向き合うことがなければ真の自分との対話がなされず(疎外感)、また失敗を繰り返してしまったり悲しみや痛みに向き合っていないがために根本的な原因に気づかず、ただただ心が乱れてしまうことが示唆されているのかもしれません。
救いとしてこのカードがもたらされる場合には、悲しみや痛みからの脱出を示唆している場合もあります。
29-5 ペンタクルの3







ペンタクルに置き換えると、ペンタクルが寓意している「収穫」というのは、もちろん自然にもたらされるものでもあるんだけど、その裏には必ず人の手が加わっているってことを寓意している。


さらにウェイトはこの絵はペンタクルの8の修行中だった人が技術を習得してマイスターになった姿だって書いてる



そうするとね、ますます、わざわざこの人以外の人を2人書き込んでることがちょっと気になるんだ。
収穫のための労力やこれまでの鍛錬が実りにつながっていることをあらわすなら、石工の人だけでいいとおもうんだよ


修道士と教会の図面をもった設計者が立っています。この3人の人物が一緒にいることは、最上の仕事が技術的熟練(空気)、霊的な理解(水)、エネルギーと欲望(火)を結びつけることを意味しています。
フォーテュナー レイチェル・ポラック「タロットの書ー叡智の78の段階」




いずれにせよ、このペンタクルの3ではこれまで培った技術や努力が成果になって現れてきている様子が寓意されてるんだ。
基本的な解釈
彫刻家が修道院でペンタクル型の装飾をつくっています。アーサー・ウェイトはこのペンタクルの3に対して
この図柄と「ペンタクルの8」を比較対象してほしい。そこでは徒弟もしくは素人であった者が、報酬を得て今や専門家になっている。
魔女の家BOOKS アーサー・ウェイト 「タロット公式テキストブックより」
とのべています。ここで描かれているのは、熟練の彫刻家なのです。
各スートの3はそのスートが深く理解されたときにおこることが寓意されています。収穫をあらわすペンタクルには、必ず人の努力や、そのスキルに対する熟練があることが寓意されています。
また、3人描かれている人物に対して、レイチェル・ポラックは以下のようにのべています。
修道士と教会の図面をもった設計者が立っています。この3人の人物が一緒にいることは、最上の仕事が技術的熟練(空気)、霊的な理解(水)、エネルギーと欲望(火)を結びつけることを意味しています。
フォーテュナー レイチェル・ポラック「タロットの書ー叡智の78の段階」
収穫は技術の取得や努力が必要である一方でそれだけでは成り立たず、
はじめたいという熱い情熱やエネルギー(=教会の図面をもった設計士=火=ワンド)、その熱意を理解し、受け止め、支援すること(=修道士=水=カップ)、実際に叡智や技術をつくしてなしとげる具体的な手段(=彫刻家=空気=ソード)が組み合わさることで、収穫(=ペンタクル型の装飾=地=ペンタクル)が手に入ることを寓意しています。
このカードはそれまでの努力の成果が実り、収穫や名声がえられることを寓意しています
正位置
正位置では、これまでの努力の成果が実り、十分な成果や栄誉がえられることを寓意します。
ひょっとしたら人間関係で出てくると読みにくいカードかもしれませんが、
「目的に対して積み上げた行動が一定の成果を生む」と考えれば人間関係に対しても、「これまでの努力が実って関係が発展していく」などという解釈ができるのではないかとおもいます。
また、物質的な成功だけではなく栄光や権威といった人々の尊敬につながるものも得られることが示唆されています
逆位置
逆位置の場合は、正位置で寓意されていた努力の成果が実り、栄誉や成果が得られることが過剰や不足ではたらくと解釈します。
過剰の場合には、成果や栄誉にこだわりすぎるあまり、足下がおろそかになっていること。視野がせまくなってしまって短絡的な思考になってしまっていることが示唆されています。
不足の場合には得られる成果が凡庸であること、努力を怠っていることなどが示唆されます。
救いとしてこのカードがもたらされる場合には栄誉は成果の重圧からの解放が示唆される場合もあります
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